もちもちの雑ブログ

思ったことを書いていきます

むらさきのスカートの女をガチで考察。なぜ「むらさき」なのか。なぜ「黄色」なのか

いや〜面白かった

一旦全く書かなくなったブログを、また久しぶりにログインして書き留めておきたいくらいに

 

面白かった

 

普段あまり本を読まないけれど、本屋さんで偶然見つけて偶然開いて、偶然面白そうだったから偶然買って、偶然気が向いたので読んだら、

 

 

読む手が止まらなかった。

 

 

どこが面白かったのか、を説明する前に、とりあえず物語のあらすじを本当に簡単に説明すると、

 

主人公の女が「むらさきのスカートの女」について延々と描写しているだけ

 

これだけである。これだけなのに、なぜか読む手が止まらなかった。

 

理由を説明していきたい。

 

考察(以下ネタバレ注意)

この小説は大きく3つに分かれると思う

 

①主人公の女が、近所で有名な「むらさきのスカートの女」と友達になりたいと考える。ひたすら主人公目線の「むらさきのスカートの女」の描写。

 

②主人公の女の差し金で、「むらさきのスカートの女」を主人公と同じ職場で働かせる。そこでもひたすら「むらさきのスカートの女」の描写。「むらさきのスカートの女」が、思ったより変人ではないことに気づく

 

 

③「むらさきのスカートの女」が職場の「所長」と交際する。「むらさきのスカートの女」が所長に捨てられ、所長を階段から突き落とす。主人公が初めてまともに「むらさきのスカートの女」と話す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

①の場面では、ひたすらに主人公目線から、「むらさきのスカートの女」についての描写がある。どんな人で、いつもはどこにいて、どんなものを食べて、とか。

 

普段懐疑的な目で本を読む人は、この時点で「ほんの少しだけ」違和感を覚える

 

「やけに詳しい描写だな」と

 

この小説の形式は基本的に主人公目線である。つまり、「主人公から見た風景」の描写しかされない。それに気づき、尚且つその「むらさきのスカートの女」の情報量の多さに気づくと、「この主人公の女が実はストーカーで頭がおかしいのでは?」というオチがなんとなく予想される。

 

また、「むらさきのスカートの女」が、離れ離れになった自分の姉に似ているかも、同級生に似ているかも、と、いろいろ考える。この時点で主人公の思考が、思考のまとまりを意識しないで、ただ垂れ流しているだけな「変な女」感が強まる

 

そこでまた、主人公は自分のことを、近所で有名な「むらさきのスカートの女」と比べると、全く他人には知られていない、世間にとってとるに足らない存在である「黄色いカーディガンの女」と表現する

f:id:purinchan_30:20210802000234p:plain

はて、なぜ「黄色いカーディガン」なんだろう。

 

そこで、とりあえず、色相環について考えてみる。色相環では、紫色(正確には青紫だけど)は、黄色の反対側に位置する。

 

つまり、補色」である

 

補色にはいろいろ性質がある。

①片方の色をずっと見ていると、目を逸らしたときに残像としてもう片方の色がなんとなく見える。

②二つの色を混ぜると、理論的には「」になるが、現実では「灰色になる

③二つの色を並べると、もう片方の色がとても目立つ。(むらさきと黄色は、明度の差が最も大きいとして知られている)

 

f:id:purinchan_30:20210802001642p:plain

 

 

本の表紙でも、灰色、黒という2色が使われているのがわかる。なんとなく、この「補色」の関係が暗示されているのではないか、と読んでる最中に思うわけである。

 

さて、主人公は自分のことを「黄色いカーディガンの女」と呼んでいる。「黄色いカーディガンの女」は、「むらさきのスカートの女」と友達になりたがっている。

 

そこで、奇妙なのが、本を読むとわかるように、「黄色いカーディガンの女」は意外と辛い境遇にいるのだ。お金がなく、貧困に苦しみ、家族は離散し、バイト先の備品をバザーで売って小銭を稼いでいる。

 

それなのに「むらさきのスカートの女」のことを、自分のことはさておいて、あたかも自分の方が上だと言わんばかりに妙に心配している。そして彼女ばかりを見ているのだ。

 

さて、どっちが奇妙なのだろう。

 

「ずっと片方を見ている」と「もう片方の色が浮かび上がってはこないか?」

 

つまり、黄色である。

 

狂気的な「むらさき」を見つめている女。その女からふと目を逸らしたときに、一瞬だけ現れる「補色」

 

それこそが真の狂気なのではないだろうか。(そしてその狂気は小説の最後の最後に姿を現す。)

 

対極的な場所にいながらも、実は同じ性質を持っている2つの色。2つの色が1つになろうとするのは、ある種当然と言えば当然と言える。

 

また、世界からはとるに足らない存在の「黄色」は、世間から存在を認められている「むらさき」に羨望を抱いてしまうのは、なんとなくわかる。

 

だからこそ「黄色いカーディガン」は、「むらさきのスカート」と友達になろうとしたのだろう。

 

そして②の場面に移り、ついに「むらさき」との邂逅か!と思いきや、ここでも全く会話をすることは全くない。

 

そして③の場面。「むらさき」が消え、「黄色」が「むらさき」がいつも行っている場所に行き、一緒の物を食べ、いつの間にか「むらさき」となっているのである。(詳しい描写はぜひ読んでほしい。ドキドキ感と奇妙さと歪さは、きっと病みつきになる。)

 

 

本当の狂気とはなんだろうか。

 

狂っている人間を興味深く眺める自分。もしかして、自分のことを、「普通」と思っていないか?

 

興味を持ってしまった時点で、それは同類なのではないか?

 

そして興味を持てば持つほど、その狂気に染められ、いずれはその狂気を上回り、いつしか自分が狂気そのものになっていることに気がつかない。

 

そして「むらさき」となり、新たな「黄色」が生まれ、狂気は連鎖するのである。(最後の描写では、なんとなくその「連鎖」が表現されている気がする)

 

 

f:id:purinchan_30:20210802004229p:plain

 

同類の「補色」同士で、仲間になるのは悪くないと思う。ただ、その同じ世界の毛布に一緒に蹲って、理想の「黒」ばかり見ていたら、現実の「灰色」は見えないのである。

 

いくら「黒」の模様が美しかろうとも